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(裕子さんは80歳を前にして、聖書塾を卒業され、御自分でコンピューターを操作されて原稿を書いておられます)
「70代で入った聖書塾」 私が聖書塾の事を耳にしました時は、私のような高年者には何も関係はない、勉強をしても既に使い古した頭には何も入らないと思いましたし、もちろん覚える事などには全く自信がありませんでした。ところがある日、ニュースで一人の御夫人が、「何かの都合で高校を卒業していない事をいつも残念に思っていたので、長年のお勤めをリタイヤした時を幸い、今がチャンスだと思い切って高校で学び、無事に卒業できました」と喜びあふれた顔で卒業証書を持った手を高く上げている写真を見ました。彼女はすでに70歳代でした。私はそれを見た時に、何かを学ぶ事は年齢には関係ないのではと思いました。けれどもいざ学ぼうかと考えた時に、自分にできるかどうか全く自信がありませんでした。 今まで歩いてきた道は知っています。けれどもこれから歩いてゆく道の事は全く暗く分かりません。その上に、聖書を読みましても本当に分からない事が多く、殊にたとえ話など、その裏にある深い意味が理解できません。それらが心配になりました。しかし反面、このままで私の一生が終わってしまうのかしらと考えると何かもったいなく、これという変わったこともせずに一日一日なんとなく過ごしている毎日は、死を待っているように感じられて、大変空しく寂しくなり、自分が憐れに思われてきました。また同時に、罪人であり情けない私をそのまま大きな愛を持って優しく包み、受け入れてくださったイエス・キリスト様の事や、御言葉を理解したいと言う気持ちで一杯になり、それと共に私の認知症が始まらないうちにとあせりました。 思い切って入った聖書塾での学びは私の人生の中で最高の学びになりました。自己中心、思いやりがない、傲慢、愚か者、弱い、高慢、罪人、これらを始め多くの過ちを犯してきた私は、本当に無茶苦茶な人生を歩いてきたのだと心底知らされました。 素足、草履、下駄、高歯、などいろいろの種類の履物があります。私は高慢なので、その中の高歯を履いて歩いてきました。自分の責任から逃れようと、つまづき、よろめき、転びました。その都度に自分が傷つき、悲しみ、自己憐憫に陥り、その結果人を恨み、怒る、そのような事が度々あった人生でした。聖書塾で神様の御言葉を学び始めました時、それらは全部自分の罪から出た事であるのだと思い切り知らされました。これからは一番低い草履という安定した履物を履いて、主の御言葉に従って歩いてゆこうと思いました。主と共に生活する中にも安堵がある事を知りました。いつも感謝、賛美、祈りを持つ事の大切さを知りました。言葉に言い表せないほどキリスト・イエス様は私たち一人一人を愛してくださるお方であり、いつも私たちを見守ってくださるお方である事、真実を学ばせていただきました。聖書を読む事は大切な事ですが、その中にもう一歩入る事は実生活において絶対にプラスになると信じます。
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